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【コラム】カーボンオフセットは手段にすぎない

近頃、カーボンオフセットについて思うことがあります。

イギリス発祥のカーボンオフセットが日本に本格上陸を始めたのが2007年。

それから4年たちますが、カーボンオフセットという言葉は少しずつ浸透しているものの、まだ大衆にまでは届いていないのが現状。

 

そこで最近思うんです。カーボンオフセットという言葉は、果たして日本人に馴染むのか。

自分が排出したカーボン(炭素:二酸化炭素)をオフセット(相殺)することですが、聞いてすぐに意味が理解されづらいように思います。

この数年間、我々も言葉と意味の普及に力を入れてきたが、こうした自問自答を最近繰り返しています 。

more treesとしては、もちろん気候変動も重要課題なわけですが、何よりも、森と山村が活性化することが最大の目的であって、カーボンオフセットはそのための手段(ツール)でしかないと個人的にも思っています。

一方で、たとえばとある商品の表記で

1)「この商品はカーボンオフセットされています」

2)「この商品の売り上げの一部は、森づくりに役立てられています」

 

と記載されていたとします。

1)は、売り上げの一部でオフセットをしている(森が創出するクレジットを活用(購入)している)

2)も、実際は売り上げの一部が森に行き、それがクレジットと等価交換されている

 

1)も2)も、森が創出するクレジットを活用して森づくりに貢献するという仕組みは共通している場合、消費者としてはどちらが分かりやすいでしょうか?

おそらく2)だと思います。

 

つまり、無理して「カーボンオフセット」という言葉を使わないほうが、コミュニケーション上は効果的なんだと思うんです。もちろん、その先でその資金がどの森でどのような使われ方をしたのか、CO2をどのくらい削減しているのか、そしてそれを証明する手続きが適正かを示す必要はありますが、それは約款的にウェブサイトなどに掲載すればいいレベルの細かい内容です。

さらに、カーボンオフセットは排出権取引と混同されがちです。たしかに両者のスキームは限りなく似ています。異なるのは、その目的がボランタリーか、コンプライアンスかだけ。

オフセットはあくまでボランタリーな取り組みであって、京都議定書上の義務は生じません。ところがマネーゲーム的な「眉唾」だという風な先入観も抱かれかねない。

それを裏付けるニュースを最近目にしました。

『「CO2排出権で儲かる」投資トラブル多発』(読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110919-OYT1T00194.htm

オフセットは、基本的に相対取引だし、導入が義務付けられているものではないから、排出権とは一線を画しています。ただ、おそらく一般から見たらなかなかそう理解してもらえない可能性もあります。

繰り返しますが、森林にとってのオフセットは、手段であって目的ではありません。あくまで、森が持つ多面的な恵みのうち「CO2を吸収・固定する」という機能が都市側に評価された証し(対価)であると思っています。

そうした、寄付的、貢献的なマインドがベースになっている取組みのはずなのに、マネーゲームを連想させてしまうのはとても勿体ないこと。

大切なのは、オフセットという言葉の普及でなく、行為の普及。

森、山側にとっては、J-VER(オフセット・クレジット)がうまく循環することで、都市部と経済的にもつながっていくことが大切なはず。あくまでオフセットという言葉が普及することは、その副産物でいいはず。

なので、このタイミングで「カーボン・ニュートラル」というフレーズを新たに普及させようという国の動きにはあまり賛成できません。

オフセットは、都市が森にとって貢献した証しであり、モノサシなんだと思っています。

企業が森に寄付した際、それがどう活用され、その結果どのくらいの貢献をしたのかを定量化するために、J-VERが「CO2●●トン分の削減」というエビデンスに活用されるのが一番スムーズに感じます。

オフセットは日本において正念場。

うかうかしていると「死語」と言われかねません。

とにかく「貢献の証し」として活用されていけるよう、森と都市の橋渡しをし続けたいと思います。

水谷伸吉

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