ストーリー

建築も森づくりもインクルーシブへ。隈研吾トークショー@エースホテル京都

photo by Mitsuru Wakabayashi

遅咲きの桜がようやく満開となった4月6日、坂本龍一の一周忌にあわせて隈研吾のトークショー「A Conversation with Kengo Kuma」がエースホテル京都で開かれました。more trees 代表を引き継いだ隈が語る、坂本との思い出、そしてmore treesのこれからとは。国内外から200名以上が駆けつけた60分間のトークの様子をダイジェストでお届けします。

▲来場者で溢れる「エースホテル京都」のロビー。大正時代の名建築・旧京都中央電話局を、隈が建築デザインを監修しリニューアルした「新風館」の核となるホテルだ。エースホテルの創業者アレックス・カルダーウッド氏は坂本の大ファンだった。アレックスのたっての希望で、2002年にはシアトルにあるエースホテルで、2019年にはロサンゼルスのエースホテルで坂本のピアノコンサートを開催。アレックスと坂本を引き合わせたのが、エースホテル京都のアメニティソープ「Pearl +」を手がける世界的なクリエイター ジョン・C・ジェイ氏であり、新風館のデザインを隈に依頼したのもジョンだった。
2013年に47歳という若さでアレックスは
急逝したが、エースホテルは洗練されたアートや音楽を空間にちりばめ、旅人と地域の人々をつなぎ、ホテルのあたらしいカルチャーを生み出し続けている。そんな革新的な場で、そしてアレックス、ジョン、隈、坂本の想いが交わる場所で、1日限りのトークショーがはじまった。photo by Mitsuru Wakabayashi

隈と坂本の出会い

隈が坂本と出会ったのは40年近く前。隈の幼ななじみで、YMOのマネージャーでもあった生田朗氏がふたりを出会わせました。1988年の夏、隈は坂本と生田にロサンゼルスで一緒に遊ぼうと誘われ、ドライブなどして数日間をともに過ごします。生田はそのまま車でメキシコまでいく予定があり「一緒に行こう」と隈を誘いましたが、仕事のため隈は帰国。東京に戻ってから信じがたい報せを受けますーー生田が車ごと崖から落ちて亡くなった。数日前まで「本当に楽しかった」という記憶が一転、「哀しみに暮れていました」と隈は当時を振り返りました。しかし、ここから隈の人生は変わっていきます。

“生田はピアノ、ドラムなどの楽器が揃っていた僕の家にやって来ては、セッションのまねごとをして遊んだ。彼は音楽の途に進んで坂本さん、山下洋輔、大貫妙子のマネージャーとなり、YMOのマネージメントとコーディネートも手掛け、坂本さん ― 僕らは「教授」と呼んでいた ― と僕をつなぎ、僕の人生は変化した。アートというものの力で、世界に到達できることを知った。” 
KUMA NEWSLETTER #52

▲more trees 代表/隈 研吾(くま けんご)
「友人であり、最も敬愛する芸術家であった坂本龍一さんの跡を継いで、more treesを率いることになり、大きな責任を感じています。単にmore treesという組織のバトンを「教授」から渡された責任だけではなく、地球環境に対する責任という、とてつもなく大きくて重いバトンを渡されたのだと、僕は感じているのです」。2023年6月、建築家 隈研吾はこう語って、坂本が立ち上げた森林保全団体 more treesの代表を引き継いだ。photo by Mitsuru Wakabayashi

 

隈とmore trees、重なる原点

2015年、more treesのために木製プロダクトをつくってほしいと坂本から依頼を受け、隈は「TSUMIKI」をデザインします。「つみきは僕の人生にとって重要なものです。建築を志すきっかけになったのも、子供の頃ひとりで延々とつみきで遊んでいた体験が大きい」。建築家としての原点であるつみきが、more treesの原点である「都市と森をつなぐ」というテーマと重なって生まれたプロダクト。これが、隈とmore treesの最初の接点となりました。

▲会場に設けられたTSUMIKIのプレイエリアでは、来場者たちが夢中になって遊んでいた。ソリッドな塊を「積む」という従来の考えを根本から変え、細く薄い部材を「編む」ことでより軽やかで透明感のある積み木を作りたい。まったくあたらしいアイディアから生まれたTSUMIKIを、隈は「僕のプロダクトデザインの中で、一番気に入っている」と語る。photo by Mitsuru Wakabayashi

今回のトークショーではmore trees 事務局長の水谷が隈との対話役を務め、隈とmore treesのあいだの共通項を紐解いていきました。TSUMIKIに加えて水谷が触れたのが、「高知県梼原町(ゆすはらちょう)」との関係です。

▲more trees 事務局長/水谷伸吉(みずたに しんきち)
「君のモチベーションさえ許すならば、『more trees』の事務局長になってくれないか」。2007年、当時インドネシアで活動する植林団体に所属して熱帯雨林の再生に取り組んでいた水谷に、坂本龍一が声をかけた。水谷は即断し、more trees設立以来、事務局長としてあらゆる活動をリードしている。photo by Mitsuru Wakabayashi

現在、more treesは国内20か所、海外2か所で森づくりを行っていますが、はじめて森づくりに取り組んだ場所が高知県梼原町でした。梼原町はmore treesの活動の原点。同時に、実は隈にとっても大切な場所です。80年代のバブル経済がはじけ、東京の仕事がすべてキャンセルされるという苦難の時期に、隈は梼原に出合いました。「梼原という特別な場所に呼びよせられ、惹きつけられ、木の使い方を学んでいった」。木材をふんだんに取り入れた隈ならではの建築スタイルのきっかけとなったのが梼原であり、ここにもまた隈とmore treesのつながりがありました。

“梼原に出合って、僕は生まれ変わった。梼原で古い木造の芝居小屋に出合い、素敵な森と出合い、様々な職人さんと出会って、僕は生まれ変わった。”
隈研吾『隈研吾 はじまりの物語 ゆすはらが教えてくれたこと』青幻舎

 

ノイズから生まれるもの

トークショーの最後は「ノイズ」の話題へ。建築で用いる木材は、同じ種類の木でも地域によって色や木目の入り方が異なります。節が入ったり違う木目のものが並ぶことでばらつき、不規則性が生まれる。そうした「ノイズ」こそを隈は大切にしてきたといいます。「ノイズを否定してしまうと無機質で均一なマテリアルになってしまう。ノイズは個性であり魅力です。」(隈)

2017年にmore trees 10周年記念イベントで坂本と隈が対談をした際、坂本もノイズの必要性を語っていました。「私たちは視覚的にも聴覚的にもノイズを必要としているし、私たちの周りはノイズだらけですね。」(坂本)水谷も「教授は音楽のなかに、五線譜では表現できないニューヨークの雑踏や氷河が解ける音などをとり入れていた」と坂本の作品を思い返します。

ここで隈からあがったのは「インクルーシブ」というキーワードでした。「ノイズを排除するのではなくインクルーシブ。人間社会もそうだけれど、建築も森づくりもインクルーシブです」と隈は語ります。

坂本龍一が亡くなって1年。大切な人を失った哀しみは消えません。それでも坂本の遺志を継いで「インクルーシブ」を意識しながら森づくりに取り組み、地域とのつながりを育んでいきたい。more trees が編んでゆく未来への想いとともに、トークショーは締めくくられました。

photo by SHOGO NISHINO

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